生涯をかけて石見神楽発展に尽くした功労者
細川 勝三 (ほそかわ かつぞう)
略 歴 (1907-1970) | |
1907年 | 浜田市旭町今市の神楽衣裳店に生まれる |
1925年 | 松竹映画に入社し衣装部に所属する |
1936年 | 鬼や大蛇が火を吐く仕掛けを発明する |
1954年 | 学者らと石見神楽の台本を作り出版する |
1964年 | 初めての神楽大会を成功に導く |
豪華絢爛な衣裳、観る者を引き込む仕掛け、盛大に開かれる神楽大会、伝承に欠かせない台本。今では石見神楽の代名詞ともいえるこれらは細川勝三なしには発展し得ないものでした。
1907年、細川勝三は今の旭町今市にあった神楽衣裳店に生まれます。昭和初期、石見神楽は衰退の危機にありました。詞章は乱れ果て、社中と呼ばれる神楽団体も減っていました。そんなとき、細川勝三は衣裳や仕掛けの刷新に取り組みます。当時の衣裳は模様を描いて染めたものでしたが、四国で修行をし金糸・銀糸をふんだんに使った「龍」や「虎」などをあしらえた衣裳を作り始めます。鬼や大蛇が煙火を噴く仕掛けを考案し、迫力ある演出をしました。さらに、乱れた詞章を復原するために研究し、1954年には学者らとともに「校定石見神楽台本」を作成、出版します。この台本は現在でも使われており、石見神楽の基礎となるものといえます。
今では当たり前の光景である神楽大会も、初めて開催に導いたのは細川勝三でした。神に奉納するための神楽をステージで舞うことに反対意見もありましたが、熱心な若者らを励まし大成功を収めます。1970年には大阪万国博覧会で上演された「大蛇」が大評判となり、全国や世界で石見神楽の名が知られるようになります。しかし残念ながらこの年、細川勝三は事故により石見神楽の発展に尽くした生涯を終えます。
私たちの郷土の誇りとして身近でなくてはならない石見神楽。今日に続く石見神楽の発展にもっとも寄与した人物が、細川勝三なのです。
1907年、細川勝三は今の旭町今市にあった神楽衣裳店に生まれます。昭和初期、石見神楽は衰退の危機にありました。詞章は乱れ果て、社中と呼ばれる神楽団体も減っていました。そんなとき、細川勝三は衣裳や仕掛けの刷新に取り組みます。当時の衣裳は模様を描いて染めたものでしたが、四国で修行をし金糸・銀糸をふんだんに使った「龍」や「虎」などをあしらえた衣裳を作り始めます。鬼や大蛇が煙火を噴く仕掛けを考案し、迫力ある演出をしました。さらに、乱れた詞章を復原するために研究し、1954年には学者らとともに「校定石見神楽台本」を作成、出版します。この台本は現在でも使われており、石見神楽の基礎となるものといえます。
今では当たり前の光景である神楽大会も、初めて開催に導いたのは細川勝三でした。神に奉納するための神楽をステージで舞うことに反対意見もありましたが、熱心な若者らを励まし大成功を収めます。1970年には大阪万国博覧会で上演された「大蛇」が大評判となり、全国や世界で石見神楽の名が知られるようになります。しかし残念ながらこの年、細川勝三は事故により石見神楽の発展に尽くした生涯を終えます。
私たちの郷土の誇りとして身近でなくてはならない石見神楽。今日に続く石見神楽の発展にもっとも寄与した人物が、細川勝三なのです。
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