危険を冒し、藩のために大航海
今津屋〈会津屋〉八右衛門
(いまづや〈あいづや〉はちえもん)
(いまづや〈あいづや〉はちえもん)
略 歴 (1798-1836) | |
1798年 | 今の浜田市松原町に生まれる |
1831年 |
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1833年 | 鬱陵島への渡海を実施 |
1836年 | 八右衛門事件発覚 死罪となる |
江戸時代、浜田の松原で代々廻船を使って商売をする廻船業者の家に生まれた八右衛門。32歳頃には松原浦で自分の廻船を持ち、今津屋八右衛門として航路を行き帰りしていました。やがてその度に見かける空島(現・韓国領鬱陵島)に興味をもつようになった八右衛門は、その島には誰も住んでいないように思われたので、当時財政難であった浜田藩のため、島の産物を持ち帰れば利益になると考え、浜田藩と相談をして1833(天保4)年に乗組員とともに出帆しました。空島(鬱陵島)には、たくさんのアワビや海産物があり、けやき・桑・松・桜や朝鮮人参のような草なども取りました。渡海は数回行われたと考えられています。 しかし、時は鎖国の時代。1836(天保7)年、大坂町奉行所により八右衛門らは大阪町奉行に捕らえられ、39 歳で死罪となりました。 この今津屋八右衛門事件は、仙石(兵庫県)事件、大塩平八郎事件と共に天保三大事件の1つとなり、日本中に知れわたることとなりました。 しかし、歴史観は常に動いており、時代や社会環境の変化につれ、今津屋八右衛門の評価は変わっています。「浜田のためにつくした偉人」「鎖国を破り開国を先取りした人」など先見の明をもち藩の財政を救い、地方経済を潤した人ともいわれています。
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